三池立花家から寄託された三池藩最後の藩主 立花種恭 の関連資料から幕末から明治初期にかけての多数の書簡が見つかる(2018年9月)

 2018年9月12日、福岡県大牟田市立の三池カルタ・歴史資料館は、三池立花家から寄託された三池藩最後の藩主立花種恭たちばな たねゆき)の関連資料から幕末から明治初期にかけての多数の書簡が見つかったことを発表したようです。

 

 岩倉具視ら明治の実力者の書簡60点 最後の三池藩主に送る 歴史資料館が発見、10月公開 [福岡県]|【西日本新聞】

 書簡を含む史料の一部は10月2日~12月9日(月曜と最終木曜休館)、同館の企画展「三池立花家の近代-立花種恭と激動の幕末維新」で公開する。入場無料。同館=0944(53)8780。

 

 岩倉具視三条実美らの名前が見えます。

 

史料は種恭から5代目に当たる現当主が先代から引き継ぐ際に出てきたという。

 ということで、現当主の名前はありません。

 

冷泉家第23代当主 冷泉為臣(1944年戦死) が翻刻を手掛けていた「俊頼髄脳」の「定家本」(藤原定家らが書写)が出版される模様(2018年9月)

 藤原定家写本の歌学書翻刻出版へ 冷泉家時雨亭文庫が発表 : 京都新聞

 

 「俊頼髄脳」というのは、歌人であった源俊頼みなもと の としより)が、鳥羽天皇(当時上皇)の皇后だった高陽院藤原泰子に献上した作歌のための文書のようです。
 「俊頼口伝」「俊秘抄」という別名もある模様。

 藤原泰子は、関白藤原忠実の娘。

 この「俊頼髄脳」の最古の写本が、有名な藤原定家らによるものらしいのですが(「定家本」と記事にありますが、それは別の有名なものと混同するのでは……)、それの翻刻(出版できるように原稿を準備したということだと思います)を手掛けていたのが、1944年に中国で戦死した冷泉家第23代当主の冷泉為臣(れいぜい ためおみ)で、戦死のため「定家本」もどこにいったかわからなくなっていたようです(2005年発見……)。
 冷泉家は藤原定家の子孫の系統です。

 また、江戸時代の冷泉家第14代当主冷泉為久が「為久本」と呼ばれるものを出しているようです(写本??)。

 今回、冷泉為臣が生前に完成近くまで進めていたものを、学者らがチェックして仕上げたということになりそうです。

 冷泉為臣は父の冷泉家第22代当主冷泉為系伯爵に先立って亡くなっており、また父も隠居していたという情報もないので、「当主」であった時期はないのかと思います(数え方の問題)。
 ただ、上記の記事によれば、同家の典籍公開のために時雨亭文庫の一巻目の刊行を主導したのが為臣のようです。

 

追記:
 リンクをひとつ追加しておきます。

 「俊頼髄脳」の翻刻本出版 冷泉家23代当主・為臣氏の遺稿が76年ぶりに日の目(1/2ページ) – 産経WEST

 

訃報(2007年4月12日):東園基文(旧)子爵、卒去(1911~2007)

 2007年4月12日、東園基文(旧)子爵(ひがしその もとふみ)が卒去した模様。
 1911年1月28日生まれ。96歳。従三位勲二等。

 公家/羽林家の一つ東園家の当主。

 伊達宗家/旧・仙台藩主家の伊達邦宗伯爵の三男として生まれ、東園基光子爵の後を継ぐ。
 東宮侍従、宮内庁掌典長、神社本庁統理などを歴任。

 東園佐和子夫人(北白川宮家の佐和子女王)はすでになくなっている。
 後継当主は長男東園基政氏。次男東園基宏、三男東園基治の各氏も存命。三人は母親のさらに母親が房子内親王(明治天皇第七皇女)なので、明治天皇の曾孫にあたる模様。

結婚(2007年?):壬生基成 氏が結婚

 詳細確認できませんでしたが、壬生基成氏が結婚された模様です。
 公家/羽林家・華族/伯爵の壬生家の継嗣で、1979年9月22日生まれの27歳。

 父基博氏が旧・東久邇宮家から壬生家に養子に入っており、祖父は同家の盛厚王。祖母は昭和天皇長女の成子内親王