「江戸まちたいとう芸楽祭」実行委員会が八ヶ国の駐日大使らを屋形船に招いてPRしたそうですが、徳川宗家継嗣の 徳川家広 氏が同行したとのこと(2018年9月)

 2018年9月3日、東京都台東区で開催中の「江戸まちたいとう芸楽祭」実行委員会が、八ヶ国(アルゼンチン共和国、オーストラリア連邦、オーストリア共和国、ドイツ連邦共和国、エルサルバドル共和国、スリランカ民主社会主義共和国、タイ王国、マレーシア)の駐日大使らを屋形船に招いて舟遊び企画を体験してもらったそうですが、徳川宗家継嗣の徳川家広氏(とくがわ いえひろ)が同行したとのことです。

 

 江戸まち たいとう芸楽祭PRイベントとして、「隅田川 大江戸浮舞台」を実施しました 台東区ホームページ

総勢8ヶ国14名の駐日大使ほか、徳川家広氏が、屋形船で江戸の情緒あふれる粋な舟遊びを体験!

各国の駐日大使のほか、徳川宗家十八代当主ご長男・徳川家広氏をお招きし、PRイベントを実施しました。

↑ の記事へのリンク:
江戸まち たいとう芸楽祭さんのツイート: "【おしらせ】 昨日9月3日には、芸楽祭PRイベントとして、「隅田川 大江戸浮舞台」を実施。 総勢8ヶ国14名の駐日大使ほか、徳川家広氏に、屋形船で江戸の情緒あふれる粋な舟遊びを体験していただきました! https://t.co/1usYxS58KU"

 

 東京新聞:8カ国大使ら 屋形船楽しむ 「芸楽祭」の企画 先行体験:東京(TOKYO Web)

 徳川宗家十八代当主の長男徳川家広さんや、服部征夫区長も同行してあいさつした。

 

「江戸まちたいとう芸楽祭」公式サイト:
 江戸まち たいとう芸楽祭

 

 なお、各大使が公式サイトやソーシャルメディアでなにかこの体験を発信してくれているか確認しましたが、残念ながらそのようなものは一件も見当たりませんでした。
 台風や地震の話が多かったこともありますが……。

 PRになったかどうかは、台東区の方々に判断していただきましょう。

 

【系譜未確認】伊達政宗から第21代目だという伊達佳内子という方がミス・ワールド日本代表に決定したそうで……(2018年8月)

 2018年8月末のことらしいですが、伊達政宗だて まさむね)から第21代目だという伊達佳内子だて かなこ)という方がミス・ワールド日本代表に決定したそうです。

 当たり前ですが、芸能(やスポーツ)関連の記事は細かく系譜の確認などしてくれないので、信頼性にはハテナマークが付きますが、
 「伊達政宗から21代目」
 「亘理伊達家の末裔」
 「政宗の直系」
 「伊達政宗の末裔」
 といった言葉が並びます。
 
 亘理伊達家といった言葉もあるので、その系統だろうということですが、細かいことはわかりません。
 亘理伊達家には(戦国時代にある程度興味がある人ならおなじみの)伊達成実だて しげざね)の養子に伊達政宗の子供が入っています。
 その後伊達氏の別系統から養子を迎えてもおり、また近代以降婿養子もありますが、血統としては政宗から続いているのか続いていないのかはっきりしないところです(養子が来た元の家にも別から養子が来ていると確認は面倒になります)。ざっと見たところ続いていそうではありますが、そもそも元の問題として、この方が亘理伊達家歴代当主とどういう関係なのかわからないので、なんともいえないところです。

 

WWS CHANNEL:
伊達政宗から21代目亘理伊達家の末裔・ 伊達佳内子がスピーチ!ミス・ワールド・ジャパン日本代表に輝く! – YouTube

 

WWS CHANNEL:
政宗の直系 伊達佳内子さんがミス・ワールド日本代表に決定! – YouTube

 

 「ミス・ワールド2018」日本代表決定 伊達政宗の末裔・慶応大学の伊達佳内子さん – モデルプレス
 政宗の直系、伊達佳内子さんがミスワールド日本代表 – 芸能 : 日刊スポーツ

 

冷泉家第23代当主 冷泉為臣(1944年戦死) が翻刻を手掛けていた「俊頼髄脳」の「定家本」(藤原定家らが書写)が出版される模様(2018年9月)

 藤原定家写本の歌学書翻刻出版へ 冷泉家時雨亭文庫が発表 : 京都新聞

 

 「俊頼髄脳」というのは、歌人であった源俊頼みなもと の としより)が、鳥羽天皇(当時上皇)の皇后だった高陽院藤原泰子に献上した作歌のための文書のようです。
 「俊頼口伝」「俊秘抄」という別名もある模様。

 藤原泰子は、関白藤原忠実の娘。

 この「俊頼髄脳」の最古の写本が、有名な藤原定家らによるものらしいのですが(「定家本」と記事にありますが、それは別の有名なものと混同するのでは……)、それの翻刻(出版できるように原稿を準備したということだと思います)を手掛けていたのが、1944年に中国で戦死した冷泉家第23代当主の冷泉為臣(れいぜい ためおみ)で、戦死のため「定家本」もどこにいったかわからなくなっていたようです(2005年発見……)。
 冷泉家は藤原定家の子孫の系統です。

 また、江戸時代の冷泉家第14代当主冷泉為久が「為久本」と呼ばれるものを出しているようです(写本??)。

 今回、冷泉為臣が生前に完成近くまで進めていたものを、学者らがチェックして仕上げたということになりそうです。

 冷泉為臣は父の冷泉家第22代当主冷泉為系伯爵に先立って亡くなっており、また父も隠居していたという情報もないので、「当主」であった時期はないのかと思います(数え方の問題)。
 ただ、上記の記事によれば、同家の典籍公開のために時雨亭文庫の一巻目の刊行を主導したのが為臣のようです。

 

追記:
 リンクをひとつ追加しておきます。

 「俊頼髄脳」の翻刻本出版 冷泉家23代当主・為臣氏の遺稿が76年ぶりに日の目(1/2ページ) – 産経WEST

 

丹羽霊祠殿【丹羽神社】から戊辰戦争の二本松藩戦死者の霊牌が多数見つかる(2018年8月)丹羽霊祠殿は昨年、丹羽家から二本松市に寄贈とのこと

 二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、80柱を等しく慰霊:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet

 

 福島県二本松市の霞ヶ城公園(二本松藩主丹羽家の居城)にある丹羽霊祠殿(にわれいしでん : 通称:丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者の霊牌が多数見つかったそうです。

 戊辰50年の慰霊祭(戊辰殉難士五十年祭?)に合わせたものとみられており、霊牌は全て同じ形だったことから(?)二本松市の担当者は「身分で区別していない」とし、二本松藩主丹羽家第18代当主丹羽長聰氏(にわ ながとし)もコメントしています。

 

 戊辰五十年となると、もう大正ですが……。

 そして、四分の一程度の霊牌が遺族の手に渡らずに残っていた、ということになるわけですが、元の上級武士から農民にいたるまで四分の一の遺族・子孫が慰霊祭に参加していなかったということになるのでしょうか(それとも四分の三も参列したとみるべきか)。

 残されていた霊牌の中に大目付軍監として出陣したらしい上級武士の丹羽舎人という表記の人物がいるようです。
 身分と「丹羽」から藩主と同族かとも思われますが……。

 

金沢の婦人学級と首都圏在住の石川県県人会会員らが加賀前田家の分家が統治した七日市藩のあった群馬県富岡市を訪問。七日市陣屋跡の県立富岡高校では、七日市藩主前田家第15代当主の妻 前田佳子 夫人から歓迎を受けた模様(2018年8月)

 加賀藩ゆかりの群馬・富岡 小立野婦人学級ら訪問:石川:中日新聞(CHUNICHI Web)

 

 2018年8月27日、金沢の婦人学級と首都圏在住の石川県県人会会員らが加賀前田家の分家が統治した七日市藩のあった群馬県富岡市を訪問したようです。
 藩庁であった七日市陣屋跡の県立富岡高校では、七日市藩主前田家第15代当主の妻 前田佳子 夫人から歓迎を受けた模様。

 

 七日市藩は、前田利家まえだ としいえ)の五男前田利孝まえだ としたか)を初代としていますが、大坂の陣の武功による立藩です。

 記事中、

加賀藩の支藩・七日市藩

 とありますが、成立の経緯が武功であることと、所領が遠方であることもあり、支藩であるかどうかは異論が出るケースと思います。
 ただ、本家との関係が深かったのは間違いありません。

※「支藩」という言葉が、結構なものなので仕方ないです。