島津氏第32代当主 島津修久 氏が、「鹿児島県薩摩義士顕彰会」設立100周年の記念行事に(2018年9月)

 2018年9月8日、鹿児島市中央公民館で、「鹿児島県薩摩義士顕彰会」設立100周年の記念行事がおこなわれ、会長の島津氏第32代当主島津修久氏(しまづ のぶひさ)が出席したようです。

 

 島津家当主、「西郷どん」での島津久光に苦言 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

島津さんは、原口教授と対談しながら持論を展開し、「島津家などにこだわらず、顕彰事業に関心がある方がやるようにして、広がりをもたせるべきだ」と語った。

NHK大河ドラマ「西郷どん」にも及び、島津さんは「(島津)久光が悪役で描かれるのは仕方ない」としながらも、「自ら『国父(藩主の父)だ』などというのはみっともない」と指摘。

 

「江戸まちたいとう芸楽祭」実行委員会が八ヶ国の駐日大使らを屋形船に招いてPRしたそうですが、徳川宗家継嗣の 徳川家広 氏が同行したとのこと(2018年9月)

 2018年9月3日、東京都台東区で開催中の「江戸まちたいとう芸楽祭」実行委員会が、八ヶ国(アルゼンチン共和国、オーストラリア連邦、オーストリア共和国、ドイツ連邦共和国、エルサルバドル共和国、スリランカ民主社会主義共和国、タイ王国、マレーシア)の駐日大使らを屋形船に招いて舟遊び企画を体験してもらったそうですが、徳川宗家継嗣の徳川家広氏(とくがわ いえひろ)が同行したとのことです。

 

 江戸まち たいとう芸楽祭PRイベントとして、「隅田川 大江戸浮舞台」を実施しました 台東区ホームページ

総勢8ヶ国14名の駐日大使ほか、徳川家広氏が、屋形船で江戸の情緒あふれる粋な舟遊びを体験!

各国の駐日大使のほか、徳川宗家十八代当主ご長男・徳川家広氏をお招きし、PRイベントを実施しました。

↑ の記事へのリンク:
江戸まち たいとう芸楽祭さんのツイート: "【おしらせ】 昨日9月3日には、芸楽祭PRイベントとして、「隅田川 大江戸浮舞台」を実施。 総勢8ヶ国14名の駐日大使ほか、徳川家広氏に、屋形船で江戸の情緒あふれる粋な舟遊びを体験していただきました! https://t.co/1usYxS58KU"

 

 東京新聞:8カ国大使ら 屋形船楽しむ 「芸楽祭」の企画 先行体験:東京(TOKYO Web)

 徳川宗家十八代当主の長男徳川家広さんや、服部征夫区長も同行してあいさつした。

 

「江戸まちたいとう芸楽祭」公式サイト:
 江戸まち たいとう芸楽祭

 

 なお、各大使が公式サイトやソーシャルメディアでなにかこの体験を発信してくれているか確認しましたが、残念ながらそのようなものは一件も見当たりませんでした。
 台風や地震の話が多かったこともありますが……。

 PRになったかどうかは、台東区の方々に判断していただきましょう。

 

皇太子(徳仁親王)殿下がフランス訪問を前に記者会見(2018年9月)

 皇太子殿下(徳仁親王 : なるひと : Crown Prince Naruhito : His Imperial Highness The Crown Prince of Japan)が、明日【2018年9月7日】出発のフランス共和国訪問を前に、記者会見をおこないました。

 

 フランスご訪問に際し(平成30年) – 宮内庁
 皇太子さまフランス訪問を前に会見 | NHKニュース

今回の訪問は,1858年に日仏修好通商条約が締結されてから160周年という節目の年に行われます。歴史をたどれば,両国民が初めて接点を持ったのは,伊達政宗の派遣した支倉常長が率いる慶長遣欧使節が,1615年に南フランスのサン・トロペに偶然立ち寄ったときであるとされます。

天皇皇后両陛下には,平成6年に国賓としてフランスをご訪問になったほか,天皇陛下には皇太子でいらっしゃった昭和28年にも同国をご旅行になっており,その際の訪問先でのことや,お会いになった人々の優しさ,心温まるおもてなしなどについては,折に触れて両陛下より伺っております。また,1921年にフランスをご訪問になった皇太子時代の昭和天皇は,エッフェル塔に登られ,パリ市街を眺められたと伺っておりますが,今回私は,エッフェル塔のライトアップの点灯式に際し,対岸のシャイヨー宮からエッフェル塔を見上げることになります。

愛子は,先日の英国でのサマースクールへの参加を通じて,様々な貴重な経験を積んできたようです。私自身,英国への留学を始め,外国での生活を経験することで,それまで日本にいるだけでは気が付かなかったことにも気付き,考えを深めることができました。愛子も,今回の英国滞在によって,より幅広い視野を身に付けてくれたのではないかと思いますし,そうした経験を,今後の人生に,そして,皇族としての役割を果たしていく中でいかしていってほしいと思っています。

 

続報:
 皇太子(徳仁親王)殿下がフランス訪問へ出発(2018年9月)

 

冷泉家第23代当主 冷泉為臣(1944年戦死) が翻刻を手掛けていた「俊頼髄脳」の「定家本」(藤原定家らが書写)が出版される模様(2018年9月)

 藤原定家写本の歌学書翻刻出版へ 冷泉家時雨亭文庫が発表 : 京都新聞

 

 「俊頼髄脳」というのは、歌人であった源俊頼みなもと の としより)が、鳥羽天皇(当時上皇)の皇后だった高陽院藤原泰子に献上した作歌のための文書のようです。
 「俊頼口伝」「俊秘抄」という別名もある模様。

 藤原泰子は、関白藤原忠実の娘。

 この「俊頼髄脳」の最古の写本が、有名な藤原定家らによるものらしいのですが(「定家本」と記事にありますが、それは別の有名なものと混同するのでは……)、それの翻刻(出版できるように原稿を準備したということだと思います)を手掛けていたのが、1944年に中国で戦死した冷泉家第23代当主の冷泉為臣(れいぜい ためおみ)で、戦死のため「定家本」もどこにいったかわからなくなっていたようです(2005年発見……)。
 冷泉家は藤原定家の子孫の系統です。

 また、江戸時代の冷泉家第14代当主冷泉為久が「為久本」と呼ばれるものを出しているようです(写本??)。

 今回、冷泉為臣が生前に完成近くまで進めていたものを、学者らがチェックして仕上げたということになりそうです。

 冷泉為臣は父の冷泉家第22代当主冷泉為系伯爵に先立って亡くなっており、また父も隠居していたという情報もないので、「当主」であった時期はないのかと思います(数え方の問題)。
 ただ、上記の記事によれば、同家の典籍公開のために時雨亭文庫の一巻目の刊行を主導したのが為臣のようです。

 

追記:
 リンクをひとつ追加しておきます。

 「俊頼髄脳」の翻刻本出版 冷泉家23代当主・為臣氏の遺稿が76年ぶりに日の目(1/2ページ) – 産経WEST

 

丹羽霊祠殿【丹羽神社】から戊辰戦争の二本松藩戦死者の霊牌が多数見つかる(2018年8月)丹羽霊祠殿は昨年、丹羽家から二本松市に寄贈とのこと

 二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、80柱を等しく慰霊:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet

 

 福島県二本松市の霞ヶ城公園(二本松藩主丹羽家の居城)にある丹羽霊祠殿(にわれいしでん : 通称:丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者の霊牌が多数見つかったそうです。

 戊辰50年の慰霊祭(戊辰殉難士五十年祭?)に合わせたものとみられており、霊牌は全て同じ形だったことから(?)二本松市の担当者は「身分で区別していない」とし、二本松藩主丹羽家第18代当主丹羽長聰氏(にわ ながとし)もコメントしています。

 

 戊辰五十年となると、もう大正ですが……。

 そして、四分の一程度の霊牌が遺族の手に渡らずに残っていた、ということになるわけですが、元の上級武士から農民にいたるまで四分の一の遺族・子孫が慰霊祭に参加していなかったということになるのでしょうか(それとも四分の三も参列したとみるべきか)。

 残されていた霊牌の中に大目付軍監として出陣したらしい上級武士の丹羽舎人という表記の人物がいるようです。
 身分と「丹羽」から藩主と同族かとも思われますが……。