トスカナ大公を称する、メディチ家の一系統メディチ・ディ・オッタヤーノ家の一員オッタヴィアーノ公子が、帰天したローマ教皇フランシスコ聖下への弔意を表明(2025年4月)

 トスカナ大公を称する、メディチ家の一系統メディチ・ディ・オッタヤーノ家の一員オッタヴィアーノ・デ・メディチ・ディ・トスカーナ・ディ・オッタヤーノ公子(Prince Ottaviano Medici di Toscana di Ottaiano)が、帰天したローマ教皇フランシスコ聖下への弔意を表明しています。

 表記を少し英語風に変更して表記すると、トスカナ大公オッタヴィアーノ・デ・メディチ・ディ・トスカナ(His Royal Highness Grand Duke Ottaviano de’ Medici di Toscana)と称しているようです。

 

 (イタリア語:オッタヴィアーノ公子の公式ウェブサイト)Comunicato di Cordoglio per la Scomparsa di Papa Francesco –

 

 オッタヴィアーノ公子の主張は、トスカナ大公の地位は、本来メディチ家の一員である(がトスカナ大公となったのは別系統である)オッタヤーノ家などの家が継承するべきでだったが、主にハプスブルク家などの介入により、ハプスブルク家の傍系がトスカナ大公となった、ということになるでしょうか。
 これを前提として(妥当かどうかは正直わかりませんが)、その経過を不服として自らが正統であると主張するのは理解できるように思えますが、しかし。
 実はオッタヴィアーノ公子は、オッタヤーノ系統の当主的な立場にありません。
 より年長系統のジュリアーノという人物がオッタヤーノ公およびサルノ公爵として、当主的な地位にあります。
 従って、たとえオッタヤーノ系統が正統なトスカナ大公位の継承者だとしても、それはジュリーアーノ公ではないのか? この疑問に答えることが出来ていません。

 オッタヴィアーノ公子は、フィレンツェを拠点にして、熱心に活動しているようですが、以上のような状況や、そもそもトスカナはハプスブルク家の権利と見なされていることもあり、あまり動向が報じられていることもありません。
(なお、ハプスブルク家の内部の問題としても、トスカナ大公国の大公の地位は、本家筋である皇帝に譲渡されている文書があるとして、その後はハプスブルク家内にトスカナ大公室と呼ばれるものは存在しないと判断している人々もいます。いずれ詳しく調べてみたいと思っています)

ダイヤモンド「ボー・サンシー」、約7.7億円で落札。サザビーズ担当者にはヴュルテンベルク公子フィリップ殿下の姿も(2012年5月)

 ダイヤモンド「ボー・サンシー」が約7.7億円で落札されたそうです(旧プロイセン王室のホーエンツォレルン家が出品とのこと)。

 サザビーズ担当者にはヴュルテンベルク公子フィリップ殿下(His Royal Highness Duke Philipp of Württemberg : フィリップ・ヘルツォーク・フォン・ヴュルテンベルク)の姿もありました。
 フィリップ殿下は、ヴュルテンベルク王位継承者のヴュルテンベルク公カール殿下の三男です。

BBCの映像より:
ヴュルテンベルク公子フィリップ殿下

 

記事&映像:
 (英語)BBC News – One of world's oldest diamonds sells for $10m
 (英語)'Royal' diamond Beau Sancy sells for $9.7m – BBC News

記事:
34.98カラットのダイヤモンド、5月に競売へ 落札価格は数億円か 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
35カラットの歴史的ダイヤ「ボーサンシー」、7億7000万円で落札 スイス 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
フィリップ殿下のコメント部分:

サザビーズ・ヨーロッパのフィリップ・ヘルツォク・フォン・ビュルテンベルク(Philipp Herzog von Wuerttemberg)会長は競売終了後、「あなたが購入するのは単なるダイヤではなく、歴史的芸術品なのです」と語った。

 ボーサンシーを初めて購入した王族は、フランス国王のアンリ4世(Henry IV)。マリー・ド・メディシス(Marie de Medici)王妃にせがまれて1604年に購入し、1610年の戴冠式では王妃の冠にも使用された。

 ボーサンシーは17世紀半ばにオランダに渡り、オラニエ公ウィレム2世(Willem II of Orange Nassau)とイングランド王チャールズ1世(Charles I of England)の娘メアリー・スチュアート(Mary Stuart)の結婚の際に使われた。メアリー・スチュアートは後に、王位を狙う兄のチャールズ2世(Charles II)への支援金を工面するためにこのダイヤを手放した。

 その後1702年に初代プロイセン王がその王冠の最高の位置にボーサンシーを付けて以来、このダイヤはプロイセン王家で代々受け継がれてきた。