天皇(明仁)陛下退位後の英語表記の称号が決まっていた模様:上皇【エンペラー・エメリトゥス(Emperor Emeritus)】、上皇后【エンプレス・エメリタ(Empress Emerita)】、皇嗣【クラウン・プリンス(Crown Prince)】(2019年2月)

 昨年秋頃からこの分野のほとんど情報をチェックしていなかったせいか見逃していましたが、天皇陛下(明仁あきひと : Emperor Akihito : His Majesty【His Imperial Majesty】 The Emperor)退位後の英語表記の称号が決まっていたようです。

 

 ご称号とお代替わりの基本用語(日本語・英語) – 公表事項 – 宮内庁
※リンクされているPDFファイルより

上皇陛下 Joko Heika, His Majesty the Emperor Emeritus
上皇后陛下 Jokogo Heika, Her Majesty the Empress Emerita
皇嗣殿下 Koshi Denka, His Imperial Highness the Crown Prince
皇嗣妃殿下 Koshihi Denka, Her Imperial Highness the Crown Princess

 

 つまり、
 上皇 = Emperor Emeritus(エンペラー・エメリトゥス)
 上皇后 = Empress Emerita(エンプレス・エメリタ)
 皇嗣 = Crown Prince(クラウン・プリンス)
 皇嗣妃 = Crown Princess(クラウン・プリンセス)
 ということになるようです。

 上皇をエンペラー・エメリトゥスにしたのは、ローマ・カトリック教会のベネディクト16世聖下(His Holiness Pope Emeritus Benedict XVI)が、辞任後の称号を Pope Emeritus (ポープ・エメリトゥス)にしたのを思い出させます。もっとも、カトリックでは、前職者の称号をエメリトゥス付きのものにするのは普通のことで、他教会にも例はあります。

 上皇后をエンプレス・エメリタにしたのは、うーん、これはどうなんでしょう。この Emerita というのは、要するに Emeritus の女性形なのですが、英語圏でもこの単語を見たことがある人はいるのだろうかというくらい見なさそうな単語のような気がします。つまり Empress Emerita と書いてあると、エメリタという名前の女帝か皇妃に見えるのではないかと。もっとも、現在地上に Empress を称する人間はそんなにはいませんので、そこまで気にすることはありませんが……。

 なお、上皇・上皇后ともに、固い場では上記の単語が用いられるでしょうが、あまりしっかり書かない報道などでは、「former Emperor(前天皇)」「former Empress(前皇后)」とあっさり書かれることも多々あるでしょう。

 そして秋篠宮・同妃両殿下が称号とすることになる皇嗣・皇嗣妃ですが、英語表記では皇太子・皇太子妃と同じく Crown Prince / Crown Princess になるようです(ほかになかったとも思いますが)。
 称号についてはともかく、これに関連して思うのは、秋篠宮家はどうなるのかということです。自然消滅、ということになるんでしょうか。
 眞子内親王殿下(まこ : Her Imperial Highness Princess Mako of Akishino)、佳子内親王殿下(かこ : Her Imperial Highness Princess Kako of Akishino)、悠仁親王殿下(ひさひと : His Imperial Highness Prince Hisahito of Akishino)は、日本語表記では別に秋篠宮を必要としませんが、英語の称号付き表記では Princess Mako of Akishino のようになっていますので、これが削られるかもしれません。

 

関連:
 皇太子(徳仁親王)殿下即位後の秋篠宮(文仁親王)殿下の(日本語の)呼称は「秋篠宮皇嗣殿下(あきしののみやこうしでんか)」となる模様(2019年3月)一般報道では「秋篠宮さま」「皇嗣さま」「秋篠宮皇嗣さま」のどれになるのか。あと英語はどうするんです??

 

嵯峨天皇写経1200周年:京都の大覚寺で60年に1度の「戊戌開封法会」。高円宮妃(久子)殿下と絢子女王殿下が写経を拝観(2018年10月)

 2018年10月1日、京都府京都市右京区嵯峨の大覚寺で60年に1度の「戊戌開封法会(ぼじゅつかいふうほうえ)」が始まったようです。

 

 60年に一度の法要始まる 京都・大覚寺で戊戌開封法会 : 京都新聞

法要は飢饉(ききん)や疫病流行が相次いだことを受け818(弘仁9)年、嵯峨天皇が1字ごとに3度礼拝し写経した故事にちなむ。

同年が「戊戌」であったことから鎌倉時代以後、60年ごとに写経の封を解き法要を営んでいる。

午前10時半、黒沢全紹門跡(81)らが読経する中、

開封後、高円宮妃久子さまと三女の絢子さまが写経を拝観された。

 

 高円宮家の憲仁親王妃久子殿下(ひさこHisako : Her Imperial Highness The Princess Takamado)と絢子女王殿下(あやこ : Her Imperial Highness Princess Ayako of Takamado)が写経を拝観。
 

 なお、読経をおこなった黒沢全紹門跡は、今年【2018年】の真言宗長者のようです。

 

大覚寺公式サイト:
 旧嵯峨御所 大本山 大覚寺

 

冷泉家第23代当主 冷泉為臣(1944年戦死) が翻刻を手掛けていた「俊頼髄脳」の「定家本」(藤原定家らが書写)が出版される模様(2018年9月)

 藤原定家写本の歌学書翻刻出版へ 冷泉家時雨亭文庫が発表 : 京都新聞

 

 「俊頼髄脳」というのは、歌人であった源俊頼みなもと の としより)が、鳥羽天皇(当時上皇)の皇后だった高陽院藤原泰子に献上した作歌のための文書のようです。
 「俊頼口伝」「俊秘抄」という別名もある模様。

 藤原泰子は、関白藤原忠実の娘。

 この「俊頼髄脳」の最古の写本が、有名な藤原定家らによるものらしいのですが(「定家本」と記事にありますが、それは別の有名なものと混同するのでは……)、それの翻刻(出版できるように原稿を準備したということだと思います)を手掛けていたのが、1944年に中国で戦死した冷泉家第23代当主の冷泉為臣(れいぜい ためおみ)で、戦死のため「定家本」もどこにいったかわからなくなっていたようです(2005年発見……)。
 冷泉家は藤原定家の子孫の系統です。

 また、江戸時代の冷泉家第14代当主冷泉為久が「為久本」と呼ばれるものを出しているようです(写本??)。

 今回、冷泉為臣が生前に完成近くまで進めていたものを、学者らがチェックして仕上げたということになりそうです。

 冷泉為臣は父の冷泉家第22代当主冷泉為系伯爵に先立って亡くなっており、また父も隠居していたという情報もないので、「当主」であった時期はないのかと思います(数え方の問題)。
 ただ、上記の記事によれば、同家の典籍公開のために時雨亭文庫の一巻目の刊行を主導したのが為臣のようです。

 

追記:
 リンクをひとつ追加しておきます。

 「俊頼髄脳」の翻刻本出版 冷泉家23代当主・為臣氏の遺稿が76年ぶりに日の目(1/2ページ) – 産経WEST