2018年9月15日、和歌山県和歌山市西高松の県立図書館で、紀州徳川家第16代当主徳川頼貞(とくがわ よりさだ)に関連する演奏会とシンポジウムがおこなわれたようです。
頼貞の孫の徳川宜子(とくがわ ことこ)さんが臨席とのこと。
<南葵の宝>頼貞の音楽文庫 250人堪能 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
宜子さんは紀伊徳川家第19代当主なのかどうかで議論があったりしますが、
頼貞の孫で建築家の徳川宜子さんは、
ということで上記記事では「当主」表記はありません。
この問題ですが、一般論として、現代日本には「当主」なるものを独占的・排他的に認定できるような機関・団体はありませんので、なんともいえません。
異論が出た場合、「好きな意見」を選んでください、としか。
異論の予知のない第17代当主徳川頼韶(とくがわ よりあき : 頼貞の子息)が1958年に死去します。
その後、頼貞の未亡人である為子は青山剛(あおやま ごう)という人物を養子にして後を継がせています(第18代当主 : 養子にした理由がよくわかりません)。この時青山剛あらため徳川剛は、頼貞と為子の間の娘徳川宝子と結婚したということになっています。
ところが徳川剛は、レストランの経営に失敗して、1965年に離婚(妻と)・離縁(義母と)して、以後消息不明・生死不明となっている、という状況があります(つまり現在も生きているのかもしれません)。
このような醜態のもと、剛が紀州徳川家の第18代当主であったとその後も認識されたはずはなく、またそもそもその以前から認識されていなかったかもしれません(そこを確定させるには、1950年代後半~1960年代の資料を研究しないといけませんが……)。
さて、上記年代が正しいとして、父の逃走のその時、長女の徳川宜子さんはまだ10歳を過ぎたあたりであり、また、徳川の血を引く母も、頼貞の未亡人である祖母も生存しています。
こういったややこしい状況の中、母の徳川宝子については生死含めて詳細はわからないのですが、祖母は1989年に薨去します。
よって、剛が第18代当主だとして、宜子さんが第19代当主だとすると、いったいいつどのような理由で誰が決めたのか?、という疑問が生じますが、以前のご本人のインタビューからすると、「気がついたら」ということになります。反論できません。
とはいえ、祖母は1989年に亡くなり、もし母も亡くなっているとすると、妹とされる徳川礼子さんという人物の名前も挙がっていたりしますが、姉妹二人しかいないなら長幼の序から姉を当主だと考える人々もそれなりにいた/いるのかもしれません。
これを承認するとして、徳川宜子さんの後の当主ですが、独身らしいので、妹とされる徳川礼子さんがどうされているか、また意思はどうなのか、という点が第一に来ると思います。
また、もちろんこれから、宜子さんが一門から養子を迎えるということもありえないわけではありませんが、今までのインタビューなどからするとそんな気はまるでなさそうではあります。
徳川一門の祭祀では和装の男ばっかりずらーっと並ぶわけで、ここに並ぶことが当主として承認されていることだという考えもできます。
が、いずれにせよ、最初にいった通り、現代日本には「当主」なるものを独占的・排他的に認定できるような機関・団体はありませんので、なんともいえません。