2007年4月18日、レソト王レツィエ3世陛下(His Majesty King Letsie III)とレソト王妃マセナテ陛下(Her Majesty Queen ‘Masenate)の第三子・長男となるレロトリ・セーイソ王子殿下(His Royal Highness Prince Lerotholi Seeiso)が誕生した模様。
全名はレロトリ・モハト・ベレン・セーイソ(Lerotholi Mohato Bereng Seeiso)のようです。
2007年4月18日、レソト王レツィエ3世陛下(His Majesty King Letsie III)とレソト王妃マセナテ陛下(Her Majesty Queen ‘Masenate)の第三子・長男となるレロトリ・セーイソ王子殿下(His Royal Highness Prince Lerotholi Seeiso)が誕生した模様。
全名はレロトリ・モハト・ベレン・セーイソ(Lerotholi Mohato Bereng Seeiso)のようです。
2007年3月31日、現・タンザニア連合共和国内の、ウシハ首長デービッド・キダハ・マクワイア(Chief David Kidaha Makwaia)が薨去した模様です。
1922年5月7日生まれの84歳。
1945年にスクマ人(スクマ族)のウシハ首長の地位を継承、50人以上の首長たちから構成されるスクマ人の最高首長となり、タンガニーカ立法会議のアフリカ人の最初の出席者たちの一人となります(立法会議での地位は1958年まで)。
1953年までに東アフリカでもっとも力のある首長の一人となり、タンガニーカ総督“サー”・エドワード・トワイニング(Sir Edward Twining : のちに一代貴族のトワイニング男爵 : 総督任期:1949~1958)とも親交を深め、いくつかの公的な地位を得ています。
1953年の英国女王エリザベス2世陛下の戴冠式の賓客。
1954年に植民地政府で働くために、ウシハ首長の地位を弟フセインに譲る。
この頃、キリスト教のローマ・カトリックに改宗し、デービッドとポウルという名前(洗礼名?)を自分に加え、以後デービッド・キダハ・マクワイアと呼ばれるようになる。
1961年にタンガニーカは独立。彼とも親交のあったジュリウス・ニエレレ首相は首長の社会的指導者の地位を廃止して、彼と弟フセイン首長を遠い地区へ追放した。
2005年に弟のフセイン首長が薨去し、ウシハ首長に復位。子息二人が生存しているようで、ウシハ首長位を継承する可能性あり。
オランダ女王ベアトリクス陛下の甥にあたるオランニェ=ナッサウ公子フローリス殿下(His Highness Prince Floris of Orange-Nassau)の妻エメ妃殿下(Her Highness Princess Aimée of Orange-Nassau)が、二人の間の第一子を懐妊している模様です。
今年(2007年)10月出産予定。
フローリス殿下は結婚にあたってオランダ議会の許諾を得なかったために、オランダ王位継承順位に並んでいません。
ニコラス・ウィンザー卿(Lord Nicholas Windsor)の妻パオラ夫人(Paola : Lady Nicholas Windsor)が懐妊しているそうです。
ニコラス・ウィンザー卿は、ケント公爵エドワード王子殿下(イギリス女王エリザベス2世陛下の従弟)の次男で、1917年の勅令が決定している王子の範囲に入らないため公爵の継嗣以外の子供の扱い、つまり「卿(Lord)」となっています。
ニコラス・ウィンザー卿はカトリック教徒のため、イギリス王位継承順位には並んでおらず、生まれてくる子供もカトリックの洗礼を受ければ継承順位には並びません。
2007年2月11日頃、旧ブルンジ王国のブルンジ王妃バランパライェ陛下(Queen Baramparaye)が崩御されたとの情報が入っています。
ブルンジ王ムワンブツァ4世(King Mwambutsa IV of Burundi)の王妃で、ブルンジ王ンタレ5世(King Ntare V of Burundi)の母とされています。